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お袖さんはいつも庶民と共に…
四国の榎・狸伝説は、古くは飛鳥時代より記録に残っています。
長い歴史の中、幾多の困難に遭遇し、その度に庶民の支持を得ることで復活を繰り返すお袖さん。
ユーモアたっぷりな四国の榎・狸伝説とお袖さんの歴史をご覧下さい。
時代 年号 西暦 トピックス 出典 原典
  天智 668〜 隠神刑部、伊予久万山(久谷)に出生、豊作の神として崇められ、伊予八百八狸を統率。   講談本
  延暦 800〜 弘法大師、キツネを四国より追放。タヌキ王国に。 合田
富田
西園寺
戦国     河野通直(湯築城主)、二人奥方騒動でキツネを追放   西園寺
江戸 慶長7 1602 加藤嘉明、勝山へ築城着手。隠神刑部、工事安全と藩の加護を約す。   講談本
築城の一環に湯山川を岩堰より付け替え、山麓の堀端に川筋土手の名残りとして東御門の辻に大榎木、南東角に小榎を植える。その後成長した榎の空洞に狸が棲みつく。   浅井
村井
寛永4 1627 松山城落城    
享保 1716〜 堀口大学(槍指南番)、お堀端で老女(化け猫)を突き殺し、お堀は血に染まり古狸の死体が浮かんだ。その後、堀口家には悲劇が続き大榎の下に小祠が建てられた。   西園寺
享保17 1732 享保の大飢饉。当時の松山藩を題材にした「伊予名草」「松の山鏡」「八百八狸」などの物語の発端。   県百科事典
浅井
文政11 1828 八股榎の辻向かい武道練成城、後に藩校明教館。   県百科事典
    お袖狸が城山から下りてくる。美男が多く通るため、榎の陰から通行人を眺めるのが楽しみとなる。老婆の腹痛を癒した善行が噂となり、流行神として信仰が始まる。   西園寺
若侍の佐竹麟之丞がお袖に乱暴狼藉を働く。高木四郎左衛門が八股狸の前脚を切り落とし、大入道と蛙の怪に悩まされる。   西園寺
明治 明治5 1872 愛媛県の前身である石鉄県の参事である本山茂任が「タヌキが住む厄介な木を切り倒せ」と命じ、堤防の上にあった初代八股榎を県庁の暖炉の薪にしてしまう。その時、お袖狸は郡中の古寺へ一時退転。後に堤防の中腹にあった二代目榎は育ち、お袖狸も帰ってくる。    
明治29 1896 正岡子規「小幟や狸を祀る枯れ榎」    
明治44 1911 伊予鉄道の古町"道後"一番町間が電化開通。電車架線のため祠は撤去され、お袖狸は六角堂へ合祀、教力狸と夫婦になる。しかしお袖狸は大宮八幡の金平狸と夫婦説もある。    
明治45 1912 電車開通の際、榎を切倒そうとしたが、祟りがあるとして枝打ちだけで済ます。   浅井
興居島の羽村マキが榎も祠もない八股へ参拝して帰り、夢枕に出た八股狸の祠を興居島に建立。    
大正 大正7 1918 八股のお榎さん復活(三代目榎)、古巣へ帰る。   海南新聞
元松山市長で産婦人科医の安井雅一氏がお袖狸に助産をさせる。    
戦前 昭和5 1930 お堀の埋め立てが始まる。榎の下の茶屋が撤去されたが、残っていた榎と祠への参拝客は増加。榎傷害事件が起こる。    
お袖狸、郡中駅前の栄養寺に夜遊びの噂。    
昭和8 1933 お袖狸の祠、破壊される    
昭和9 1934 八股榎、石井村・喜福寺へ遷座。干ばつで枯れ死。   新聞
国鉄大井駅(現JR大西駅)に女学生が降り立ち、数日後に巡礼団が小西村小山部落の明堂へ参拝。   新聞
昭和10 1935 明堂菩薩、お袖狸の引越先として参拝者急増。ブーム現象到来。取締りから公認から沈静化へ。   新聞
昭和15 1940 お堀端に三体のお狸さんが現る。本家争い勃発。    
戦後   拓川町にお袖狸の祠   ふるさと素鵞
昭和27 1952 小さな祠ができる    
昭和31 1956 ヒノキ造りの立派な祠が完成    
昭和51 1976 松山市長:中村時雄の顔面神経痛がお袖参拝で快癒する。   狸サロン
平成 平成15 2003 狸平(お袖と金平の子)、松山城400年を機に札幌・本陣狸の娘・真狸と結婚。   狸サロン
平成23 2011 お袖さんの神像が盗まれる。捜索中にお堀から別の狸像が見つかる。   愛媛新聞
平成25 2013 狸平・真狸に双子(狸輝、結狸)出生。   狸サロン
平成26 2014 八股榎お袖大明神 奉賛会設立    
平成26年5月/いよ狸サロン 山岡堯編

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